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団および各隊の初期登録年月日

発 団 :

昭和38(1963)年 2月20日

ビーバー隊 :

平成元(1989)年  4月1日

カ ブ隊 :

昭和45(1970)年 10月20日

ボーイ隊 :

昭和38(1963)年 2月20日

ベンチャー隊 :

平成10(1963)年 2月20日
初期登録 昭和41年6月10日

ローバー隊 :

平成12(2000)年 4月1日

日本ボーイスカウト
神奈川連盟横浜第58団

 

 58団の発団

昭和37年10月、横浜東ロータリークラブ上野会長・粉間幹事(副会長)はボーイスカウト運動に深く共鳴し、またロータリーの奉仕の精神からも「地域の青少年の健全な育成」をめざす事を目的に、横浜東ロータリークラブが育成母体となり隊員募集に着手。(区内の中学校に募集を要請) 

この時の募集要項(入隊の栞)には、誓いの三条、12のおきてと「そなえよつねに」にが記載され、団費として月250円、内150円は夏季キャンプとユニホームの償却費に当て、100円は教材と訓練費に当てるとある。

翌38(1963)年2月8日登録申請、2月20日に日本連盟への登録が承認され、3月23日鶴見歯科医師会館において工藤県連理事長、関県連コミッショナー、矢野横浜地区協議会長、山下副会長、石井地区委員長、その他、内外から多数の来賓と関係者を迎え、58団高木昌邦(後日、成田宗朗隊長に代わる)少年隊々長以下18名のスカウトにより、発団・発隊式が盛大に挙行され58団がスタートした。

 

 年長隊発隊式

登録に際し横浜東ロータリークラブが育成会(母体)である事から、初代育成会長はクラブの上野泰会長、初代団委員長は同じくクラブの石塚喜之助会員が任命された。順調に活動を展開して、三年後の昭和40年には年長隊「伊能班・間宮班の名称」で各5名2班(現ベンチャー隊を)を発隊した。
発団から数年間は、育成会からの援助金は一定化されず、クラブ理 事会の方針で毎年変わると言う状況下で団の財政難に直面した石塚団委員長は、私費をもって団の維持に努力された。
石塚団委員長は58団の財政的援助をクラブ(育成会)に訴えた時、あるクラブ会員から「クラブはボーイスカウトを作ったが、その後は彼ら自身でやるべきであり財政的援助云々と言うが、金が必要なら日曜日にでも隊員が托鉢したらどうだ」と言う様な事を言われ、石塚団委員長が歯ぎしりして涙を流した。と言う逸話がある。

 

 ジャンボリー

昭和40年11月横浜地区秋季ラリーで2位、41年8月の第4回日本ジャンボリー(岡山県)へ15名が参加、また2名のスカウトを海外派遣させるなど活発な活動を展開。

昭和45年に念願であったカブ隊をスカウト36名で発隊し、6月14日に花月園子供センターで発隊式を開催。

三隊が揃った58団となった。

 

 初代石塚団委員長から2代目菅沼団委員長へ

昭和46年10月2日石塚団委員長が死去され、翌昭和47年ロータリークラブの菅沼恒雄会員が団委員長(第2代)に就任した。
菅沼団委員長は就任後、団の状況から団規約の改善と58団育成会規約の必要性をクラブに進言し、理事会と団総会の確認後、規約・規定(案)を起草してクラブの臨時総会で提案・承認を得た。

団創設当時、上野会長が口頭で伝えた横浜東ロータリークラブが58団の育成母体として、団の固定費についてはクラブが負担し、特別行事(ジャンボリーや日連・県連・地区)並びに県外・海外派遣費などの費用はクラブが一部を負担する。と言う約束が明文化されていなかった事を、58団育成会規約と58団規約に折り込み制定した事により、団としての運営基盤がこの時に確立された。

 

 発団10周年記念式典

その後、団・隊は順調に発展しスカウトも増員され、昭和48年2月11日発団10周年記念式典を鶴見公会堂で開催。
この時カブ隊は2隊(8組)49名、年少隊4班25名、シニア隊8名、ローバー隊8名のスカウト90名を数える団に成長した。

菅沼団委員長はロータリークラブ会長就任により団委員長を退任、昭和49年スカウト父兄の五十嵐金作が団委員長(第3代)に就任。ロータリークラブからは早野茂雄会員が副団委員長、兼ボーイスカウト委員長として育成会との連携を菅沼前団委員長から引き継ぎ就任した。

団委員長五十嵐・副団委員長早野の体制は、平成元年まで(15年間)の長期にわたった。この間に幾つかの団・隊活動が定着する一方、早野副団委員長は育成会(ロータリークラブ)の支援・援助を定着化させるなどの努力と貢献を続け、ここに58団として団・隊の運営体制が盤石なものになった。

昭和50年以降、スカウトが減少傾向になったがスカウトの海外派遣(米国各地)へ五十嵐彰、伊藤忠、坂谷正人の参加などを含め活発に活動を展開。

昭和51年8月群馬県昭和村との児童交流(双方でホームステイ)を実施。
昭和53年6月発団15周年記念式典を青色申告会館で挙行。7月にSS隼挑戦キャンプを北海道の五十嵐牧場へ遠征し成果をあげた。
昭和51年それまでの少年隊からボーイ隊に隊名が変更された。
昭和54年に横浜西ロータリークラブが育成会に加わり団の財政は安定した。
昭和55年11月2日発隊10周年を迎えたカブ隊は、記念団ラリーを三ツ池幼稚園と三ツ池公園で開催した。
この時カブ隊は5組35名であった。翌56年カブ隊42名、ボーイ隊28名、シニア隊10名の80名とローバー班5名のスカウト数で第二次発展期のピークをむかえた。
また昭和57年にスタートした新年(12/31〜1/1)のBSオーバーナイトハイク(鎌倉〜鶴見)と、団バザーの実施(会場、横浜信用金庫末吉支店駐車場)が恒例行事となった。

 

 二十歳の58団

昭和58年6月5日、発団20周年記念式典を旭硝子京浜体育館で盛大に開催した。この年からカブ隊にデンマザー(DM)が導入され、58団は5名の婦人が(登録)活躍した。

また団・隊の支援を目的とした58団父母会の発足と「ごはちだより」がこの年に創刊、スカウトの夏季キャンプ作文を中心に掲載し、現在も毎年発行されている。翌年に58団歌が作られ、団行事や隊集会で唱和されるようになった。

昭和60年に団費が800円から1000円に改訂された。昭和62年7月25から28日まで、発団25周年団キャンプが長野県・上佐野で盛大に開催され発団25周年を祝った。
昭和63年シニア隊は、横浜地区優秀隊褒賞を授与され、井野光徳スカウトが富士章を取得した。

 

 ビーバー隊の発隊

平成元年4月9日、三ツ池幼稚園でいち早くビーバー隊の発隊式を挙行、8名のスカウトでスタートした。

この時、ビーバー8名、カブ33名、ボーイ25名,ベンチャー8名、ローバー(班)4名の隊編成であった。

8月2日から7日まで10KC(神奈川キャンポリー)が朝霧高原で開催の時、夜半台風の風雨にも58団ボーイ隊のテント(A型)はびくともせず朝を迎えたことは、日頃の訓練のたまものであり内外から大きな評価を得た。

また車椅子の班長として活躍した上利篤スカウトと、班員が班長を補助する姿が注目された。

この頃から58団は、丹沢の菩提をキャンプ場として常用しはじめた。

平成4年、県連・地区の指導により4月からの年度を10月からに改訂するため、4月と半年後の10月に団総会を開催し移行した。

 

 30歳の58団

平成5年発団30周年記念として、4月11日三ツ池幼稚園で「発団30周年のつどい」を開催。

8月6日から8日までは記念団キャンプを山中野営場で開催し、また20日から25日まで初の58団海外遠征キャンプをサイパンとロタ島で実施して、成功裡に発団30周年記念行事を遂行した。

平成6年10月、五十嵐団委員長は体調不調のため勇退し、後任に穂坂正昭団委員長(第4代)が就任した。

夏季キャンプは全隊合同で、山梨県のみずがき山グリーンロッジで開催。この年から数年、山梨県に点在するグリーンロッジで全隊合同夏季キャンプを父兄の協力を得て自炊で実施し、これを契機に父兄の団への協力がより強くなった。

カブ隊主催の恒例餅つき会は平成6年2月26日に第1回を開催した。

同年6月15日、鶴見の総持寺で開催されたロータリークラブの地区協議会開催にあたり、会場案内などの奉仕をBS隊と指導者で実施した。翌7年鶴見区の友団(7個団)合同で、第1回BVS・CS隊の運動会が岸谷小学校で開催、以後毎年各団の持ち回りで楽しく仲良く実施されている。

白樺湖レイクサイドでの、BS隊スキー訓練(3月)も同年から実施(他隊は有志参加)されるようになった。

平成10年発団35周年記念として、58団チーフのシンボルマークをデ ザインした円形ワッペンを作りスカウトと関係者へ配布した。この時のスカウト数はビーバー4名、カブ14名、ボーイ14名、ベンチャー3名であった。

平成7年、前振りもなく横浜西ロータリークラブの突然の育成会からの脱会と、横浜東ロータリークラブも会員の減少などから、58団への育成会費を段階的に減額(2年後に1/3)せざるを得ない。との事前申し入れを受けて平成10年10月から、団費を月1000円から1500円に改訂した。

 

 全5隊揃う58団

平成11年7月、米国サンデイエゴへの横浜地区海外派遣へ入澤・石田・菅原3名のBS隊スカウトが参加、1週間のアメリカ・キャンプを体験した。

この年からシニア隊がベンチャー隊に呼び名が変更された。
平成12年4月1日、ローバー班を正式に隊登録し、念願であった「全5隊の揃う58団」となった。

 

 保坂団委員長から吉元団委員長(現団委員長)へ

平成13年7月28日、療養中であった穂坂団委員長の病状が急に悪化、逝去された。急遽、副団委員長の吉元が代行を勤めた。穂坂団委員長の告別式には全スカウト、団関係者が弔問し葬送した。

同年8月2日から6日まで、横浜地区キャンポリー(4YC)が群馬県・宝台樹で開催されCS隊とBS隊が参加。全食を給食するという今までに例のないキヤンプを経験した。

平成13年10月14日の団総会で穂坂前団委員長の後を、吉元正志団委員長(第5代)が正式に就任した。

平成15(2003)年の発団40周年を控え、穂坂前団委員長の遺志もあり吉元団委員長は記念事業を立案し、平成14年10月12日の団総会で発団40周年記念式典とレセプションの開催、記念品配布、三ツ池公園にトーテムポール設置、記念団キャンプ実施、記念誌発行の承認を得て実務に着手。

実行委員長に田島副団委員長を選任した。が、平成15年1月26日、式典会場鶴見会館の下見をした同日夜半に田島副団委員長が急死。団関係者の弔問に加え団として出来得る限りの葬送をした。

 

 発団40周年記念式典

平成15年3月30日、鶴見会館で40周年記念式典とレセプションを県連佐野理事長、横浜地区田中委員長、同役員、58団育成会長・横浜東ロータリークラブ石川会長、同役員、鶴見区の友団、58団OBと現役スカウトと父兄など、多くの方々の列席を得て成功裡に開催。40周年事業のスタートを切った。

記念品はストラップ付き二色ボールペンとした。

6月15日恒例の団バザーで、記念団キャンプ実施地の山田町から名産のホタテ200個を直送してもらい焼きホタテを原価で販売し、記念キャンプの盛り上げをはかった。

6月8日は、活動拠点の三ツ池公園に感謝を込め各隊製作の40周年記念トーテムポール5本を、県・公園管理課の許可を得て通称六角堂の横(ごはち広場)に設置した。

8月29日、吉元団委員長は横浜東ロータリークラブ例会に招かれ、58団の40周年記念事業報告と援助・支援のお礼を含め「ボーイスカウト運動と横浜第58団」の卓話(講演)を行った。

 

 オランダ島で

平成15年7月30日夜、発団40周年記念団キャンプの野営組が出発、翌31日夜には舎営組が岩手県・山田町へ向け出発。
8月2日は、山田町の漕艇場から800m沖のオランダ島へ全員カヌー・カッターを漕いでのチャレンジと、島での山田第2団との交流バーベキュウ大会を実施。 
山田町(湾)の環境保全の取組みを学習してホタテの養殖イカダの見学と試食を経験。
翌日はイカダ作りと海水浴で大いに楽しんだ。
また山田第2団清水誠勝育成会長が住職の龍昌寺で、早朝座禅を全員が体験させて頂いた。

3日の大営火には、お世話になった山田第2団のスカウトと清水育成会長、武藤団委員長、佐藤義雄BS隊長をはじめ団・隊関係者の方々、窓口として絶大なご尽力を戴いた山田町水産商工課の鈴木隆康係長、野舎営の岩手県立陸中海岸青年の家・職員、ご協力を頂いた町の方々を招待し58団の総力を挙げ実施した。

営火には沼崎山田町長と佐藤町議会議員が特別参加された。完全な海プロの記念団キャンプは、山田町の全面的な協力により貴重な経験をする事ができ大成功を納める事が出来た。

 

 発団40周年記念誌発行

平成15年12月12日に、団関係者の手作りによる「発団48周年記念誌」を発行。予定(計画)された発団40周年記念事業全てを、現、58団の力を結集して無事に終了した。

 

★ 本文章は40周年記念誌の「BSY58団のあゆみ」から

 


日本ボーイスカウト神奈川連盟
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